彼の止まった時間と過ぎ行く彼の季節
七 彼の止まった時間と過ぎ行く彼の季節
蝉の声を聞くと思い出す。
真っ青な空とそこに浮かぶ真っ白な雲。
冴えた緑の草木に、暗く涼しい日陰。
真っ黒に日焼けした君と僕の肌に、
プールサイドの塩素の匂い。
ずっとこんな日が続くと思っていた。
あの日の僕たちは、あの日のまま、
思い出の中に沈んでいく。
9:10 - 2016年7月30日
ジリジリと焼けるような日差しが照りつける中、背広を着た男が住宅街を歩いていく。
日差しの暑さに、真っ黒な上着を脱ぎ、黒のネクタイを緩めて白いシャツの袖を肘まで捲り上げた彼は、上着を肩にかけてだるそうに歩いていく。
どこかの家の庭の木で啼く蝉の声が幾つも幾つも混じり合った大合唱を浴びながら、彼はある場所へ向かっていた。
男の首筋をしょっぱい汗が滴り落ちて行った時、声が聞こえた。
--暑いよな。
「え?」
聞き覚えのある子供の声に振り向くが、そこには誰もいない。
日光に焼かれ、ギラギラと曇ったような輝きを放つ灼熱のアスファルトがどこまでも続いているだけだ。
「まあ、そうだよな」
あいつは死んだのだ。
あいつは……。
彼はそう自分に言い聞かせ、目的地へと急ぐ。
蝉の声を聞くと思い出す。
幼い頃の思い出。
少年の日の夏。
夏休みになると、彼はいつも決まった友人と毎日のように遊びに出かけた。
学校のプールや、近所の林、公園、児童館に図書館。
花火に夏祭り。
河川敷や海にも遊びに行ったし、スーパーやコンビニへお菓子を買いに……いや、涼みに行っていた。
朝から晩まで小さな自転車を駆り、半袖半ズボンから伸びる細い手足が真っ黒になるまで遊んだ。
夏休みが終わる頃には、二人でひぃひぃ言いながら後回しにしていた夏休みの宿題をやるのだ。
楽しい夏休み。
自分たちを縛るもののない自由な時間。
その大部分を、彼らは二人で過ごした。
ただ、成長するうちにいつの間にか気がつけば、二人は夏を共に過ごさなくなっていた。
部活、夏期講習、交友関係の変化、進学……要因はいろいろあった。
いくら仲が良くても、二人は別の人間でそれぞれの選ぶ道があったのだ。
寂しいとは思わなかった。
ごく自然とそうなっていた。
喧嘩をしたわけでも、互いが互いを嫌いになったわけでもない。
ずっとそばにいる存在ではなかった……それだけなのだろう。
だから彼は彼のことをただの幼馴染くらいにしか思っていなかった。
そして、彼は彼よりも先に逝ってしまった。
なんとも思っていなかったというと嘘になるだろう。
彼は逝ってしまった彼のことが好きだった。
そうでなければ友達にはなっていなかっただろう。
気の合う友達だった。
趣味も、笑いのツボも、様々なことで意気投合できる最高の友達。
それに、毎年この時期になれば、蝉の鳴き声を聞いてまず思い出すのは彼の顔なのだ。
彼の少年の日の夏に、逝ってしまった彼は必ずいるのだから。
その彼がもういないと聞いたのは、ついこの間のことだった。
盆には帰ってくるのかと帰省の催促をする親の電話で知った。
彼の遺書には、自分が同性愛者であるということを告白する言葉が書いてあったという。
彼よりも先に訃報を知っていた彼の友人は、彼にこういった。
「あいつ、おまえのこと好きだったんだぞ」
ずっと好きだったんだぞと友人は念を押した。
自分は気付いていたのだろうか。
先立った彼の気持ちに気付いていたのだろうか。
だから自分は彼から離れていったのだろうか。
なぜか、今まで一度も感じたことのなかった彼に対する罪悪感に苛まれ始めた。
自分は、彼の気持ちに気づいていなかった。
彼のことは好きだった。でも、それは彼の自分に対する好きとは違った。
彼が彼と会わなくなったのは、本当にただの成長の過程でしかなかったのだ。
(ごめん。ごめんな)
生きていたら、もう一度会っていたかもしれない。という思いがよぎり、彼は今更そう思う自分はずるい奴だと自分を責める。
もし、彼の気持ちに気付いていたら、自分はどうしていただろうか。
もし、ずっと仲の良い友達のままだったなら、今頃二人はどうなっていただろうか……。
考えても仕方のないことを炎天下の中、繰り返し煩悶する。
--ありがとう。
「っ?!」
また、聞き覚えのある子供の声がする。
顔を上げると、目の前に見覚えのある家の玄関先が見えた。
目的地だ。
彼はその玄関を、逝ってしまった彼と共に何度も出入りした。
家に上がり、食事やおやつをご馳走になった。
帰りたくない日は、わがままを言って泊まらせてもらいもした。
あの頃、自分は、ずっとこんな日々が続いていくのだと思っていた。
翌年もその次の年も、何年も何年もこのまま同じ夏が来て、同じように二人で遊んでいるのだろうと思っていた。
それは違った。
彼は彼から離れていった。
二人は大人になった。
夏休みは来なくなった。
それでも、記憶の中で、彼らはあの日の姿のまま、ずっと夏の日々を繰り返している。
「ここにいたのか……。ごめん、気付けなくて」
玄関先に立つ二人の少年が、真っ黒に日焼けした顔で彼を見て笑う。
彼は汗とも涙ともつかないしょっぱい水滴を拭いながら、玄関先へと歩み寄り、インターホンを鳴らした。